下関の歴史散策 7
「藤原義江」というテノール歌手

大正から昭和初期にかけて「吾等(われら)のテナー」として名をはせたという藤原義江さんが過ごした屋敷が「藤原義江記念館」として残されています。「紅葉館」という別名もあり、私がかつて訪れたのはもう、15年以上も前になるでしょうか。その時は、中でコーヒーをいただいたり、蓄音機で藤原義江の歌声を聞かせていただいたりした記憶がありました。

日清講和条約に来日した李鴻章が宿から講和会議の会場まで歩いたという、李鴻章の道から少し登った小高い場所にあります。五線と音符のデザインのしゃれた入り口をくぐってその場所を訪ねましたが、ここ数年は誰も立ち入っていない感じの状態になっていました。人がたくさん訪れて荒れていくのも残念ですが、誰も来なくなって廃墟のようになっていくのも残念な気がします。

建物の奥に、幕末に活躍した下関市出身の志士を経済面で支えた豪商、白石正一郎の墓があるとのことで、息子が草深い建物の奥に見に行ったのですが、確かにあったということです。ただ特に案内板等は無かったようです。
ぼちぼち綴っていきます。

大正から昭和初期にかけて「吾等(われら)のテナー」として名をはせたという藤原義江さんが過ごした屋敷が「藤原義江記念館」として残されています。「紅葉館」という別名もあり、私がかつて訪れたのはもう、15年以上も前になるでしょうか。その時は、中でコーヒーをいただいたり、蓄音機で藤原義江の歌声を聞かせていただいたりした記憶がありました。



日清講和条約に来日した李鴻章が宿から講和会議の会場まで歩いたという、李鴻章の道から少し登った小高い場所にあります。五線と音符のデザインのしゃれた入り口をくぐってその場所を訪ねましたが、ここ数年は誰も立ち入っていない感じの状態になっていました。人がたくさん訪れて荒れていくのも残念ですが、誰も来なくなって廃墟のようになっていくのも残念な気がします。



建物の奥に、幕末に活躍した下関市出身の志士を経済面で支えた豪商、白石正一郎の墓があるとのことで、息子が草深い建物の奥に見に行ったのですが、確かにあったということです。ただ特に案内板等は無かったようです。
ぼちぼち綴っていきます。



